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創立九十周年記念特設ページ -06- エッセー 私(わ)の母校 未津きみさん

未津きみさん
(青森ペンクラブ副会長)
莨町小学校卒業生


 エッセー
     私(わ)の母校
(北の街 8月号より一部掲載)

 莨町小学校は、私の母校である。ときたま、この小学校の前を通ると、胸をかきむしられるおもいにとらわれる。ここで学び、遊んだ思い出が、回り灯籠のようにかけめぐる。
 校舎は昔の木造でなく雰囲気も様変わりしているのに、あばれまわった校友たちが、歓声をあげ、私の琴線をはじくのであった。その彼らはみんなどこへ行ってしまったのだろう。学校の東側には青柳橋がある。橋を渡れば大きなたんぽぽ野があった。帰途、この原っぱでランドセルなんか投げ出して遊び呆けたのだ。(途中 略)

 なんと、文学史上に残る詩人福士幸次郎が、わが、母校莨町小学校の卒業生なのだ。このことを知ったのはつい最近のことである。
 福士幸次郎は、詩集「太陽の子」を出版、思想的に「白樺」に近い人道主義といってよく、「太陽崇拝」「自分は太陽の子である」などの作品が端的にそれを示している。しかし、関東大震災で一切を失った彼は故郷弘前に帰り、やがて板柳に住み、日本最初の地方主義を発表、同時に方言による詩を提唱、自分も試作した。これは津軽在住の詩人たちに方言詩の伝統を残した。(途中略)
 萩原朔太郎さえが、その全盛期に「福士君の【太陽の子】がなかったら、僕もなかった」と述懐したほどの詩人だったと。(途中略)
また、いまひとつ自慢話をしたい。東奥日報夕刊、6月18日「あおもり人ごよみ」で、佐藤初女さんを紹介していた。佐藤さんは、いまでは誰もが知っている「森のイスキア」主宰者であり、「おむすび」の名人である。全国から岩木山麓にある山荘「森のイスキア」に、初女さんをしたって絶えないとのことである。心が病んでいる人、深い悲しみの中にいる人、癒しを求めて訪れる人々に、ゆったりした初女さんのお話とおむすびで、心の迷路に灯火をともされておられる。
 私が莨町小の5年・6年の頃、美しい女教師がいた。たしか神先生と呼ばれていた。なんとその方が初女さんなのである。私は直接、神先生からお習いすることはなかったが、長身で細身、色白の美しい先生があたかも後年の生き方に通ずるものを、その頃より暗示していたと私はいま思っている。(途中略)
 いま、私は、莨町小学校の前で、やはり胸をかきむしられることに変わりはない。戦後この通りの50メートルほどはなれた映画館歌舞伎座に、孤独な寺山修司少年が住むことになった。さらに150メートルすすむと、小島一郎の写真館があった。因縁の、莨町通り、塩町通り、大町である。
 そして、つくづくと学校の前で立ち止まり、私は胸をはっている。「おめだばやっぱし、私(わ)の母校だ」と。

*福士幸次郎は青森町立莨町尋常小学校卒業
*掲載は本人の承諾を得ている


挿絵は「わが町蜆貝」より

未津きみさんからのお手紙紹介
8月22日
 今年は莨町小学校創立90周年の節目の年とは、そのときに私がエッセーを書き、先生にお読みいただいたことは感慨ぶかいものがありました。また、さっそく、莨町小ホームページを見ました。現在、学級数5、児童数63名とのこと、往時を振り返りました。しかし、少数の児童数で風通しのよい教育はある意味で理想的でもあります。先生たちが一人一人にゆっくりと接し、子どもの個性を伸ばすことにもなります。現在、教育の現場はきびしいものがあります。ご苦労がしのばれる次第でもあります。
 「いのち、ゆめ、ふるさと」を基本にまた、青森市発展の堤川河口近くの学校としての存在意義を述べておられました。文明発祥はすべて川からです。あらためてそのことを考えさせられました。幼年時の教育は一番大切ことにおもいます。どうか未来に橋を架け、未来を荷う子どもたちのためにお力をつくしてくださいませ。私は本名梅木きみと申します。未津はペンネームです。卒業生5325名の一人として今後も莨町小学校を遠くより見守っていくつもりです。
 暑い日が続いています。立秋という美しい24節気の季語は名のみ、どうか、先生なぞ職員の皆さん、児童のよい子たちのすこやかなる日々を念じてやみません。風が吹くと、それとなくミントの香りがそよと匂います。雲のたたずまいにも秋の気配です。

*学校は人々の心のふるさとです。エッセーを送っていただいた未津先生には感謝申し上げます。

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